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気配り、気遣いの加減

生き方・心構え 回答期限 2022.02.17
2022.02.10

身近な方が困っている時、力になりたいと多くの方が思いますよね。
いざ行動に移そうとした時、相手のことをすごく考えて行動しようとしてるのに『これは相手に気を違わせるだけなのでは』と思う時があります。

自己満足なのでは、偽善の押し付けなのでは、とブレーキを踏んでしまうこともあります。

そういうジレンマがうまく解消できるといいなと思うのですが。

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回答 3 件

回答は各回答者の個人的な意見で、宗派によって見解が異なることがあります。多くの回答から質問者様にとって、一番良い答えを探してみてください。

ベストアンサーに選ばれた回答

寄り添う気持ち

2022.02.12

ショコラブレッドさん、こんにちわ。
気配り、気遣いの加減は難しいですよね。
私自身、このように悩み相談を回答させて頂いておりますが、相談者の方へどのように回答したら解決への手助けになるだろうか、と色々考えながらも、回答が私の自己満足になっているのではないだろうかとジレンマのような不安があったりします。
ですが、困っている方に手を差し伸べようとする気持ちを抑える必要はないと私は思っております。
どのように行動したらよいか、言葉を掛けたらよいか、そこに正解を求めないことです。
正解を決める、判断するのはその方自身であると割り切ることです。
「○○すべき」とか押し付けることをしないで、寄り添ってあげる気持ちで接することが大事だと思っています。
いづれにしても、相手の方を思って行動しようとしているショコラブレッドさんはとても素晴らしい方だと思いますし、きっと気遣いは自然と出来ている方なんだろうと感じます。
相手の力になりたい、という気持ちを大事に自信を持って寄り添うように手を差し伸べてあげてくださいね。

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質問者 ショコラブレッド

2022.02.17

知らず知らずのうちに、自分の行動に対して正解だったかどうか気にしていたのかもしれません。
それが積み重なって、正解の対応ができるか悩むことになったのかもしれません。
アドバイス頂き、何かしてあげたいというより寄り添うやさしい気持ちでいたらいいんだ、と柔らかい感情を持つことができました。
回答ありがとうございました。

好意を受け取るのも受け取らないのも、相手次第

2022.02.11

ンガアイホー!ショコラブレッドさん、私 「K子様」言います。台湾のアミ族で、台湾で日本語学校の校長先生してます。日本語まだまだ勉強中で、間違った日本語使うかもだけど、回答するよ。あと、ンガアイホーはアミ語の挨拶ね.
私たち台湾人は 相手が困っていること見逃せないよ.いつも、どこかで困っている人がいて、その人に台湾人は声をかけている.私も声をかけるよ.だけど私、日本人の友達から「おせっかい」と言われたことあるね.私にはおせっかいの意味ちょっと難しい.だけど、たぶん、人の気持ちを考えたほうがいい意味だと思う.でも、困っている人に声をかけること、これは私の自由でしょ.そういうのを日本語で好意というでしょ.(間違っていたらごめん.私思うは、好意を受け取るのも受け取らないのも相手次第でしょ.台湾人は、声をかけられても、断るときあるね.この前、私の学校に重い荷物を持ってきてくれた人いたよ.その人に、私荷物もとうか、と聞いたよ.でもその人は、没問題といったから、私は荷物もたなかった.
私思う。私はっきりいうタイプだから、はっきりいうよ。人に優しくする悪くない。だから私はショコラブレッドさんの気持ち好きよ。好意を示す悪くない。好意を受け取るのも受け取らないのも相手次第だから、今のまま良いと思う。加油!

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質問者 ショコラブレッド

2022.02.17

元気になる励ましの回答ありがとうございました。
おせっかい、あまり構ってくれるな、というのは日本人特有の感情なのかなと思いますが、今のままでいい、との言葉になんだか心が温かくなりました。

ありがとうございました!

他人への無私の気遣いは全ての宗教の源泉

2022.02.11

 ショコラブレッドさん、アッサラームアレイコム!ホセインと申します。ショコラブレッドさんはきっと視野が広く、他の方々のお困りごとに敏感なのだと思います。そしてそれを放っておけない素晴らしい心の持ち主なのだと、質問を読ませて感じました。私は人への気配り、気遣いは大変大切なことで、これこそ不易なものだと思っています。
 この他人への無私の気遣いは、実は全ての宗教で大切にされていることです。例えば、仏教では
「母親が日々息子を気遣うように、人の心は生きとし生けるものに向けて摂取不捨でなくてはならない」
と言われています。
ジャイナ教では、
「自分がして欲しいと思う通りに、世界の全ての被造物にもそのようにせよ」(聖典)
と言われています。
また、キリスト教では
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ伝)
と、あります。
そして私の信仰するイスラームにおいては、
「兄弟に自分の望むことを望まないならば、誰も真の信者ではない」(ハディース)
と、述べられています。
 他人に気遣うことの大切さを、言い方は少し違えど、世界中の宗教が認めています。
 と、いうことで、他人への気配り、気遣いは大切であるということは誰もが納得することだと思うのですが、その表出の仕方が難しいというのが、ショコラブレッドさんのご質問のポイントなのだと思います。確かに、有難迷惑なんて言う言葉もあり、自分の好意からの行動が、相手からすると不必要であったり、迷惑だったりすることが実社会では多々あるかと思います。私は、「相手がそれを欲しているか」を知ることが大切だと思います。日本では、「相手の心を慮る」ことが重視され、言葉に出てこない相手の気持ちをこちらが理解することが大切であるという風潮があります。これはもちろん大切な力ですが、それが過ぎると先述した「有難迷惑」が発生してしまいがちです。ですから、私は身近な人が困っている様子があった時に、「どうしたの?」と、まずは声をかけるようにしています。もしそこで、「いや何も変わりはないよ」と言われれば、それまでですし、「実は…」となれば、話を聞いた後に、「私にできることはある?」と問いかけるようにしています。
 私の信仰するイスラームに、このような言葉があります。
「立派なムスリムになる条件の一つとして、他人のことに干渉しないこと」(ハディース)
 これは決して他人への気遣いや配慮は必要ないと言っているわけではありません。他人が困っているといって、直接的に自分に関係のないことに勝手に関わり立ち入ろうとする人は、善意から行う場合と自分の考えに従わせようとする場合のどちらかとなると思いますが、どちらも歓迎されません。なぜなら、人にはプライバシーがあり、関わって欲しくないという選択もありますし、関わって欲しくない領域があるからです。自分が良かれと思い込み、他人の行動に口を出すお節介は主観的善意であり自分の価値観の押し売りにすぎないからです。受け取る側は相手の善意が分かっていても煩わしく感じたり素直に喜べない時もあるのです。関わろうとした人はせっかく親切にしてあげたのに自分の好意が無駄になったことを残念に思い、受け手は有難迷惑の思いが残ってしまいます。
 ですから、「相手が望むことをするべきである」とイスラームは言っています。相手が困っていて、それを表出した時、それはあなたにかかわりのある問題になります。それからでも、十分相手の力になることはできます。場合によっては、その表出を手伝う場合、やはり対話が必要でしょうし、その時には多少の独善的な部分が出るかもしれません。ただ、それはショコラブレッドさんならば上手な聞き方ができるのでは、と思います。
 繰り返しますが、人への気遣い・気配りは大変大切なことです。ただ、相手にもプライバシーという踏み込んでほしくない領域もあるということを知ることも大切です。そして相手があなたに心を開き、相手の問題を共有してくれた時こそ、あなたの出番なのではないでしょうか。
 いずれにしても、周囲の方々に救いの手を差し伸べようとなさっているショコラブレッドさんのことを神様はきっと見守って下さっています。
 インシャアッラー。

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質問者 ショコラブレッド

2022.02.17

相手が何を望んでいるのか、それを慮ることってなかなかの関係性が必要ですよね。
お互いの心の中を滲ませるような会話ができる機会が今はとても少ない気がします。心を開いてくれるような関係性をつくっていけるように行動していこうと思いました。
気遣い、気配りについて改めて考える得る機会をありがとうございました!

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