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この世の果て

自分の心・体 回答期限 2023.09.13
2023.08.14

「この世の果て」とよく言いますがこの世の中に果てという物が存在するのでしょうか。
宗教的な見地ではどのように説明されているのでしょうか。

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回答 4 件

回答は各回答者の個人的な意見で、宗派によって見解が異なることがあります。多くの回答から質問者様にとって、一番良い答えを探してみてください。

神の領域として

2023.08.15

baeさん、こんにちわ。
この世の果て、とは何かの終着点を表すような言葉ですよね。
地球が丸いとは考えられていなかった昔に表現された言葉だったのかもしれませんね。
宗教的にどう説明すればいいのか難しい質問ではあります。というのも、この世の果て、というのは表現であって定義されるものではないので、どのように捉えるか、という話になってくるからです。
しかし、この世の果て、を誰も知らない、到達していない場所、とするならば、私達の世界でいえば、はるか彼方の宇宙の話になってしまう気がします。
私の信仰している宗教では、この世のはじまり、のお話はありますが、この世の果ての話は私自身は聞いたことはありません。この世の果てというものが存在しないからなのか、説明付かないことだからなのかは分かりませんが、私自身の見解としては神様の世界がこの世であり、神様の領域外の世界が別世界なのかな、と捉えております。
全く参考にならない回答になってしまいましたが、一つの考え方として捉えて頂ければと思います。

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仏教でいう須弥山

2023.08.14

この世の果て。大航海時代、それがどこにあるか求めて探検した冒険家たち。私はそんな冒険家になりたかった。だから、たくさん山に登った。山はこの世の果てとつながるような一種独特の雰囲気を持っていると私は思っている。気づけば日本百名山を踏破し、世界の山にも挑戦した。
なぜ私が山にこの世の果てを感じるかと言うと、きっと子どもの頃に学校かもしくは寺の説教で聞いた須弥山と言う言葉が頭に残っていたからだと思う。有頂天なんて言う言葉を聞いたことがあるだろう。それは、この須弥山の頂上付近にあって、煩悩がほんの少しだけ残る、限りなく悟りに近い世界のことを指す。これが現代に転用され、うまくいったことを有頂天になる、と言う。いずれにしても須弥山は神々の山であり、つまりきみの言うこの世の果てだ。ちなみに、西遊記で有名な玄奘三蔵法師は須弥山を妙高山と称した。私ものぼった新潟県にある妙高山はこれが由来となっている。残念ながら妙高山は須弥山ではなかったが、きみも興味があったら登ってみると良い。この世の果てを少し感じることができるのではないか。

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最後の審判と天国、地獄

2023.08.14

 baeさん、アッサラームアレイコム!ホセインと申します。この世の果て…なんだか好奇心がそそられる言葉ですね。私はムスリムですので、イスラーム的観点から回答させて頂きます。
 まず、イスラームにおけるこの世の果ては、やはり「死後の世界」であると思います。物理的なこの世の果てと言う、宇宙観と言うか世界観的な観点はすみませんが除いて回答したいと思います。
 イスラームにおける死後の世界は、最後の審判からスタートします。クルアーンには、
「嚠喨(りゅうりょう)とラッパが鳴り渡れば(復活の瞬間の描写)、 天にあるもの地にあるもの、愕然(がくぜん)として気を失う。アッラーフの特別の思し召しによるもの以外は誰もかも。次でもう一度吹き鳴らされると、皆起き上がって辺りを見回す。 大地は主の御光に煌々と照り輝き、 帳簿が持ち出され、全ての預言者、あらゆる証人が入場してきて公平な裁きが始まる。」
と記されています。
 そして、
「罰当たりどもは群れをなしてジャハンナム( 地獄)の方へと駆り立てられていく。彼らが到着すると扉が開いて門番が「(中略) 神様の啓示を読んで聞かせ、今日のこの日の対面を警告しておったはずではないか。(中略) さあジャハンナムの門に入って永遠に住むがよい」と言う。」
と、地獄へ落されるものもいれば、
「一方で主を恐れていた連中は、これまた群れを成して楽園(天国)の方へと駆り立てられていく。 そこに到着すると扉が開いて門番が「ようこそおいで。お前がたは見上げたものじゃ。さあ遠慮なく中に入って、永遠に住まうが良い」と言う。」
と、天国へいざなわれるものもいます。
 これが、イスラームにおける、この世の果ての情景です。ちなみに天国については、
「敬虔な信者に約束された楽園を描いてみようなら、(中略)そこには腐ることのない水をたたえた川がいくつも流れ、いつまでも味の変わらぬ乳の河があり、飲めば言われぬ美酒の河があり、澄みきった蜜の河があり、その上あらゆる種類の果物が実り、その上神様からは罪の許しがいただける。」
と、記されています。こういう素晴らしい場所に行くには、神を信じこうする以外道はありません。実際クルアーンには、
「(天国に入りたての人々の)中の一人が言う「 わしの友人の一人が(かつて)口癖のようにこう言っておりました「 ねえ、 君までがあのようなこと(死後の復活)を真に受けているのか、わしが死んでからまた裁かれるなんてことがあるのかね」と」そして更に(その男は)語る「みなさん、ちょっと見下ろしてごらんなされ」。見下ろせば、見える見える、あの男(復活を信じなかったその友人)が地獄の真ん中におる。「ああ、お前のおかげでわしも破滅するところであった。主のお情けがあったればこそだ。(中略)
さ、このように歓待されるがいいか、それともザックームの木(地獄の底に生える妖怪の木)がいいか。(とアッラーフが言っている)」
とあります。
 この世の果てである天国へ導かれようとするbaeさんのことを、神様はきっと見守ってくださっています。
 インシャアッラー。

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この世の果てに仙薬がある

2023.08.14

ンガアイホー!私K子様言います。台湾人だから日本語間違うかもだけど許して。
台湾には漢人が住んでいるね。私は台湾原住民だから彼らとは文化が違うけど、やはり廟には行くね。廟は道教の礼拝所。ここで神様にお祈りするね。台湾の場合、道教と仏教が混合している廟(寺)が多いから、たくさん神様がいると言っても良いね。
ところでその道教のの考え方に、この世の果てに仙薬があって、それが不老不死の薬であるという信仰があるね。これは道教の思想というか、もともとは神仙思想に由来するけど、崑崙山の上には展開があって、仙人がいると信じられていたよ。これが秦の始皇帝の時代になると、海上三神山という信仰に変わったね。司馬遷の史記には、
「蓬莱、方丈、瀛洲の三神山は言い伝えによれば、渤海の中にあって、さほど遠いところではない。ただ、今にもゆきつくかと思う時に、船が風に引かれるまま離れてしまうのがいかにも残念である。」
と、あるね。あなたの言う、まさにこの世の果てね。ちなみに始皇帝はこの三神山を信じて、徐福を東海につかわしたことは有名でしょ。日本にも徐福伝説は残っているね。
台湾や中国大陸の漢民族の信仰には、この世の果てはあって、そこには不老不死の薬がある。本当にこの世の果てがあるか私は分からないけど、こういう信仰を持っている人もいるね。

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