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南無妙法蓮華経は日本語でOK?

その他 回答期限 2021.11.28
2021.11.25

「御本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくとき、御本尊に共鳴して、自身の生命に南無妙法蓮華経の当体があらわれ、本来、私たちのなかに内在している最高の仏界という生命がわきあらわれてくる」

南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と題目を唱える。当たり前だと思っていましたが、知人に「日本語でいいの?」と質問されて「ん?」となってしまいました。

仏教は元来、サンスクリット語を鳩摩羅什が漢訳して、それが日本に伝わったとされています。南無妙法蓮華経は「法華経の教えに帰依をする」との意味となりますが、“唱える”事によってご本尊と共鳴するのにあたり、「日本語は正しい“音”なのか?」との質問意図でした。

確かに中国語として考えてみても、「南無妙法蓮華経」は「なん・む・みやぁ・ふぁ・りゃん・ふぉあ・じん」と発音します。世界へ広布する際に題目は「なむみょうほうれんげきょう」になっていると思います。

日本語で正しいのか、そもそも“音”ではなく、共鳴する事が大切で「“音”は重要ではない」とするならば、日本語で「なむみょうほうれんげきょう」でなく、寧ろ現地語推奨のはず。
実際には英語圏の人にも、台湾や香港の人にも「なむみょうほうれんげきょう」と唱えなさい。と広布しています。題目は日本語の発音ですが、音は重要であるから故に、正式とされているのかと思います。

キリスト教はヘブライ語で「amen」日本語にすると「確かにそうです」ですが、牧師さんも説教は日本語でも、最後に必ず、祈りの言葉「アーメン」と言います。「確かにそうです」と言う方を見た事も聞いた事もありません。
イスラム教もお祈りの際には神の言葉アラビア語。発祥地の言葉を用いてどの国でも祈ります。
仏教であれば、サンスクリット語が仏の言葉である事になりますが、果たして日本語での「お祈り」で仏に届くのだろうか?との疑念が生じます。発音が重要ではないのであれば、現地に合わせた言葉で題目、勤行をする方式ならば、矛盾を感じませんが日本語です。

知人には苦し紛れに仏教そのものは、サンスクリット語で漢文そして日本語になって伝わったが、日蓮大聖人が法華経を体系化した日蓮宗の「南無妙法蓮華経」であるので、日本語が正式である。と詭弁かなと思いながら反論しましたが、正直、自分自身で消化不良です。解決出来ずにモヤモヤしております。

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回答 1 件

回答は各回答者の個人的な意見で、宗派によって見解が異なることがあります。多くの回答から質問者様にとって、一番良い答えを探してみてください。

神は全て知っておられます

2021.11.26

 パンダ3さん、アッサラームアレイコム!ホセインと申します。パンダ3さんは20代ですのに確固たる信仰をお持ちで素晴らしいですね。私が20代の頃など、迷いと戸惑いしかなく、フラフラと生きていました、、、私はイスラームを信仰しておりますので、そのあたりの視点から回答させて頂きます。
 パンダ3さんがご指摘のとおり、私どもムスリムは神から賜った言葉通り、つまりアラビア語で祈りを捧げます。かなり長い間、神の言葉通りに記されたとされる聖典クルアーン(コーラン)は他の言葉に訳されませんでした。これはキリスト教ももともとは同じで、中世のフスに始まる宗教改革以降にやっと各国語へと翻訳がされるようになりました。現在はイスラームも信徒拡大や、教義を多くの人に知ってもらうために各国語に翻訳され、日本語のクルアーンも簡単に入手できます。ただ礼拝の場面はもちろんのこと、イスラームが国教になっている国々ではアラブ人でなくともアラビア語でクルアーンを学びます。
 しかし、実際問題として神に私が心のうちを訴える時、特に毎回の礼拝時の最後に願い事をする時、その言葉はどうしても日本語になってしまいます。私はそれを恥じていましたが、昔イランはイスハァハンでシーア派モスクのイマームをなさっている方にそれを質問したことがあります。するとそのイマームは「まったく問題ない。なぜなら、神は全てをご存知だからだ。どんな言葉でも、また心に浮かんだことでも、神はあなたのことを知ってくださっている」と仰っていました。また、神戸にあるモスクでも同じようなことを言われました。
 パンダ3が信じられている仏教でも同じことが言えるのではないでしょうか。宗教はややもすると形式化し、禁忌を増やしたり、言葉による権威化をしてしまいます。しかし、神は全て知っておられます。形式より信仰心こそ大切です。言葉を含め、今のパンダ3の信仰の在り方でよろしいのではないでしょうか。
 いずれにしても、信仰とより正面から向き合おうとなさっているパンダ3のことを、神様はきっと見守ってくださっています。
 インシャアッラー。

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質問者 パンダ3

2021.11.26

ご回答頂き有難う御座います。ムスリム視点の解釈はとても刺激になります。簡略化したイメージですが、イスラム教の”祈り”とは『神を感じ、縋り、時に畏怖する』そこを出発点としての、行動心理であるかと推測致します。であるからこそ、何か悪い事が起きないように、教義・戒律を守り、安泰を願い、救いを求める為の祈りの概念でしょうか。間違っていたらスミマセン。

私が信じる宗教思想では『自因自果』『まかぬ種は生えぬ、また種は必ず生える』一切の運命はすべて己のまいた種の結果であると考えます。つまり、自身の行動が自身の運命を決めるのであって、神の意思や罰では無いと考えます。
さらに、運命とは現世だけではなく、前世、現世、来世に続く全てであり、それ故に己の行動が最も重要で、どの様な行動をなし、行動原理としての考え方を説いています。ですから、同じ「祈り」でも目的が大きく異なるかと思います。

勤行(祈り)は己の魂(生命)に働きかけ、最善の行動を成す為の活力と潜在している仏界を顕在化させるツールです。「南無妙法蓮華経」と唱えるとは、魂の扉を開けるセキュリティーコードの様なイメージです。そのコードが果たして正しいのか?との素朴な疑問でした。

しかし、仰る通り「神は全てを理解する」ではないですが、己自身が強い信心(信仰心)によって魂の扉を開けて引き出す事が出来るのであれば、何語でも構わないのかもしれません。

多種多様な宗教がありますが『我々が幸せで穏やかに暮らす』為の目的は共通していると思いますので、互いが互いの信ずるものを尊重し、互いが互いの教義を補完し合えば、世界はもっとよりよくなるものと信じております。

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