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腹をたててしまう

生き方・心構え 回答期限 2024.11.08
2024.11.05

食堂にて。昼食について「味が濃い」「辛い」「熱すぎる」「まぁまぁだな」「以前はもっと良かった」となんだか評論みたいな声を耳にすると、なんだか居心地が悪くなってしまい離席してしまうことがあります。
自分は、食事を作っていただけるだけでもありがたいと思うのですが。

ちょっと耳にした小さい事で腹をたててしまいます。でも、何についても、自分は頑固な頭の固い老害でありたいな、という気持ちもあります。なんだろう。

回答 3 件

回答は各回答者の個人的な意見で、宗派によって見解が異なることがあります。多くの回答から質問者様にとって、一番良い答えを探してみてください。

食は医なり

2024.11.05

ンガアイホー!私K子様言います。台湾人だから日本語間違うかもだけど許して。
私はっきり言う好きだからはっきり言うけど、台湾では医食同源とよく言うね。食べるということの大切さを表現している。台湾の人たちは、食の大切さを分かっているし、食べ物がどれだけ多くの人の手によって作られているかを分かっている。だから何でも食べるね。だけど、一つだけこだわりがあるね。それは体を冷やさないようにするということ。台湾では水やジュース、それからビールも常温で飲む人が多い。もちろん台湾は暑いから、50嵐のようなドリンクスタンド屋さんでは氷を入れることもできる。だけど、去冰と言って氷を入れないこともできる。私はぜったい氷を入れない。体を冷やしたくないから。まさに食は医なり、でしょ。この感覚を日本人にも持ってほしいね。そうしたら、食にありがたみを今よりも感じるようになるんじゃないかな。

お米一粒の中に七人の神様が宿っている

2024.11.05

きみの言うことは間違っていない。私は昭和13年の生まれだ。戦時中、食べるものが無かった。だから私は身長が伸びなかった。終戦は小学校1年生の頃だが、後者は軍人さんが使っていた。私の食べるものも全て軍人さんに捧げられた。だが、優しい軍人さんがいて私に芋をくれたことを思い出す。あの時の芋の味…今も決して忘れることは無い。だから、私はきみの考えに賛成だ。どんな食べ物でも、食べられるだけ幸せだ。
また、私は農家の生まれで、母から米粒一つひとつに神様が宿っていると聞かされて育った。私の家は貧しく、食べられるだけで本当に幸せだったが、たしか小学生だった頃、友達が「こんなのまずくて食べられない」と給食の時に言い放った。私も貧しいと思われるのが嫌で、「まずい」と言ってご飯を残そうとした。その時、いつもは優しい先生が、「お米一粒の中に七人の神様が宿っているのよ。食べなさい」と言い、それに反抗した友達と私を平手打ちした。私は目が覚め、給食を残さず食べた。今だったら体罰かもしれないが、私は本当に目の覚める思いだった。七人の神様とは、水・土・風・虫・太陽・雲・作り手のことを指す、と先生は教えてくれた。私はこの話をその後、大切に心の中にしまい続け、そして感謝しながらご飯をいただいている。

イード・アル・アドハー

2024.11.05

 snozさん、アッサラームアレイコム!ホセインと申します。snozさんは素晴らしいですね。食事をつくって頂けることに感謝をなさっている…本当に素晴らしいです。私は教育業界におり、以前は弁当給食がある職場でした。生徒は贅沢にも、「まずい」とか「残す」とか言っておりましたが、私は本当に「美味しい」と思っていました…まずいと思うか美味しいと思うかは主観的な問題なので、生徒たちに前向きに美味しいと思うようにいつも言っていたのを思い出しました。
 さて、イスラーム世界に犠牲祭と言う祝祭があります。ご存知の通り、イスラームはユダヤ教、キリスト教と歴史的につながっています。犠牲祭は、信仰の父として有名な「預言者イブラヒーム」の物語とつながっており、イブラヒームが苦悩に苛まれながらも神の啓示に従い、息子イスマーイールを犠牲にしようとしたことが由来となっています。
 現在の犠牲祭は六信五行の一つである「喜捨」とつながりがあります。「喜捨」とは、財産に余裕のあるムスリムが一定の比率の金銭や現品を支払い、困窮している人々に富を分け与える行為です。犠牲祭ではお金に余裕のある人が羊やヤギ、牛などの動物を買ってその肉を三当分し、1つは自分や家族のため、1つは親戚のため、最後の1つは恵まれない人たちのために分配されます。犠牲祭で殺される動物は利益のために利用されるのではなく、人間が生きる上で欠かすことのできない「食べる」という行為の原点に立ち返って命の大切さと向き合います。食べるということは自分以外の生き物を「いただく」ことであり、snozさんのおっしゃるように食べられるだけで感謝をしなくてはならないおとを思い出させてくれるのが犠牲祭なのです。
 snozさんがご自身の考えを周囲の人にぶつけたとしてもそれは老害どころか正論かと思います。自信を持ってご自身の考えを披見ください。
 いずれにしても食べ物を大切になさっているsnozさんのことを神様はきっと見守ってくださっています。
 インシャアッラー。

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